2/4_6 知足

床 知足

花入 吾唯知足

 

「知足」

 

足ることを知るものは、たとえ貧困であっても心が満たされて

安らかである。

しかし足ることを知らないものはどんな裕福であっても心が満たされず、常に不安である。

 

 

清貧や、分相応といった意味で使われることも多いかと思います。

モノの溢れる現代社会においては特にこの言葉の重みが感じられます。

 

ただ、今回はこの言葉の違う側面を見ました。

 

 

「吾唯知足」の鉄器を花入とした時、どんな花が合うでしょうか。

 

最初は、茶花として成立する、存在感のある花ではなく、

庭で小さく芽を出した蕗の薹を、

普通なら物足りないくらいさりげなく入れてみようと思いました。

 

しかし、いざ入れてみると、

たとえ小さな小さな蕗の薹であっても、そこに入れることは余分であると感じられました。

この器だけで、全てが足りているということなのです。

 

つまり

この場合の「吾唯知足」は

物の大小、所得の多寡、といった話ではないということが分かったのです。

 

この器は龍安寺の石庭と同様、

「口」という字を中心に「五」「隹」「止」「矢」の四字が配置され、それを円でぐるりと纏められている形ですが、

これは単なる言葉遊びでこの形になっているとは到底思えません。

□の周りを〇が囲っている。

ここに大きな意味が込められているのではないでしょうか。

 

 

私たち一人ひとりは、既に満ち足りた存在である。

無限に満ち足りている宇宙の中で、足りないという概念がまず有り得ない

ということを

この形によって示しているのだと思います。

 

以前、〇△□ムキ栗で扱ったように

〇は完全なる宇宙の姿

□はそこに飛び込んでいく為の門です。

 

私にはこの形が

「私自身が満ち足りた存在なのだ!」

と叫んだ途端に

無限の宇宙と同化する

そんな光景を図示しているように見えてなりません。

 

 

 

 

 

 

・・・ちなみに

せっかく入れようと摘んだ蕗の薹は

小間でしっかりと存在感を発揮してもらいました。