2/27_3/1 古渓宗陳

床 琴瑟和 大道賛

平家琵琶「相応」 雛飾

 

雛祭りに因み、床には琴瑟和をかけました。

(言葉の解説については昨年の記事をご覧下さい)

 

雛祭りは上巳の節句とも呼ばれます。

巳は弁天様の使いであることから、縁のある琵琶を飾りました。

 

 

お勉強では、古渓宗陳を取り上げました。

 

常々考えていたことなのですが

利休の師は武野紹鴎、その師が村田珠光。

村田珠光は侘び茶の創始者と言われています。

 

利休は武野紹鴎を通じて珠光の侘び茶を学んでいったとされますが

連歌師でもあった武野紹鴎の茶より、利休の茶の方が更に侘びている、

禅の思想が濃くなっているように見受けられます。

 

ということは、

武野紹鴎の他に、禅の立場から利休の茶に多大な影響を与えた人物がいるのではないか

それが古渓宗陳であると。


古渓宗陳は信長の百日供養や葬儀を主催、導師を務めた人物です。

信長派の大名達から慕われており、秀吉政権下でも発言力を持っていました。

古渓はある日石田光成と対立し、博多へ流罪となるのですが

その配流先では神屋宗湛と島井宗室により丁重にもてなされていたといいます、。

秀吉は当然それを織り込み済みであったのですから

秀吉にとって古渓は重要な人物であったことが分かります。

 

利休が古渓を尊敬していたことは、様々なエピソードから窺い知ることができます。

 

まず、茶席に掛ける墨跡。

利休が掛物の中でも一番重視したものですが、

初期には圜悟克勤、それから宗峰妙超等の大徳寺の禅僧のものを掛けるようになりました。

その後、利休はこれまでの常識を破り、存命している人物の墨跡を掛けました。

それが古渓の筆です。

利休にとって古渓は、亡くなった禅師と同格と言っても過言ではない程

有り難い存在であったということになります。

 

 

また、先の流罪の折、

利休は古渓の送別茶会を聚楽屋敷で催しますが

用いた墨跡が驚くべきものでした。

虚堂智愚のそれは、秀吉が表装を直すように利休に預けたものだったのです。

 

人から補修の為預かったものを自分の茶会で用いてしまう。

どう考えても道理に背く行為です。

例えば他の茶人が同じことをしたら利休は痛烈に批判するでしょう。

 

それほどのタブーを敢えて行った。

 

それは書かれた内容が

今から出ていかんとする傑僧に早く帰ってきて下さいと呼びかける、

正にぴったりな内容であったことも勿論でしょうが、

一番の理由は秀吉への当て付けでしょう。

古渓を流罪にした秀吉へ自分が如何に腹を立てているか、秀吉に見せつけたかったように見えます。

そして配流後、利休は放免の為奔走することとなります。

 

他にもかの大徳寺山門に木造を造る際に関わったり、

そもそも利休の名を考案したとされる説もある等

古渓が利休の人生にどれ程強く、深い影響を与えたかは想像に難くありません。

 

 

ですから利休による侘び茶の大成には

古渓宗陳の存在が欠かせなかったと言っても過言ではないように思います。

 

 

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