床 臥薪嘗胆
今週のお稽古では、姫沙羅を使い、皆でお花を入れる練習をしました。
葉や花がびっしりとついている状態から、
いかにその数を減らし、楚々とした、爽やかな枝振りにすることができるか。
皆様大変熱心に取り組まれていました。
同じ花材、同じ作業でも、
出来上がった作品は正統派や、モダン、若々しさに溢れるものなど、
やはりそれぞれの性格が表れていました。
又、お昼は利休の言葉についても学びました。
「赤ハ雑ナル心ナリ 黒ハ古キ心ナリ」
この有名な言葉ですが、近年、熊倉功夫氏の
『「雑」ではなく「新」と読む』という説が注目されています。
私も、「雑ナル心」と聞いていたころは
よっぽど秀吉を批判したかったのだろう、くらいにしか思いませんでしたが、
「新ナル心」であれば至極当然、納得できます。
新しい生命のことを、我々日本人は
「赤ちゃん」
と呼びます。
赤ん坊でも赤子でも同じです。
「黄ちゃん」や「青子」ではいけないのです。
私達人間の身体を流れる血液。
鮮血と呼ばれる新しい血は明るい赤色をしており、古くなると酸化し、黒くなります。
皮膚の薄い赤ちゃんが力いっぱい泣くと全身が真っ赤になります。
赤は、漲る生命力の色です。
それに対し、黒は、全てを吸収する色です。
はじめは鮮やかな色をしていたものも、時間とともに、酸素や、光や、色々な物質を吸収することによって黒味を帯びてきます。
竹や、紙、その他の木材も、長年使い込むと色が濃くなり、味わいが生まれます。
黒に近づくことは多くの時間を経験してきた証。
黒は歴史の色。
夜空の黒には何億光年という時の流れが内包されているのです。
因みに、
私自身が考えを深めたい為
今年の年頭の言葉として黒について考えたものを、
下に載せておこうと思います。
黒と向き合う 川原宗敦
三原色といえば、赤・青・黄。そう教わってきました。
赤・青・緑という光の三原色の存在を初めて聞いた時は
「パソコンやテレビのようなデジタルの掟だろう。アナログでは黄色と青を混ぜて緑にするのだ」と斜に構えていました。
それは大きな誤りでした。
洋服を試着した時に素敵な色味だと思って買ったものが、家で着てみるとなんだか印象が合わない…ということはよくあるものです。
これはお店と家の照明が異なる為に起きる現象で、色が光に依存していることが身近に分かる例です。
白いTシャツも赤い光を当てれば赤いTシャツに見えます。
現代ではデザイナー等により使い分けられる色の種類が1万色以上あるそうですが、蛍やヒカリゴケのような自ら発光する特殊な例を除いて、物が何色に見えるかは周りの光次第であり、私たちは当てられた光を法則に従って反射・吸収(或いは透過)しているだけに過ぎないのです。
ですから、「自分が周りからどう見えているか」などという問いはあまり意味がありません。
例えば真夏の太陽の下では明るく見えるし、映画館の中では暗く見える、周りの状況次第なのですから。
裏を返せば、光を当てられなければ、人も花も、大雪原も、大海原も、夜空と同じ。ただの黒です。宇宙は元々黒なのです。
色が氾濫する現代。夜できるだけ部屋を暗くし、色から解放されると、心が落ち着きます。私も黒。隣で小さな寝息を立てる娘も黒。
黒は色の無い色。それでいて、全ての色を吸収する色。そして、宇宙の色。
そうであれば、利休の見出した黒楽茶碗は黒だから良いというより、黒でなければ意味がないように思います。
それを我々が美しいと思うのはあくまで結果論ではないでしょうか。
つまり、利休は美しいものを作ろうとしたのではなく、ただ己の真理を突き詰めた完成系が美しかったということなのだと思います。
私自身、日常生活ではつい美しいものに魅かれ、美しいものを追いがちです。
しかし茶道と対峙している時くらいは美しさを求める心から離れなくてはと考えています。
夜咄で簡単に実感できる通り、所詮全ては黒なのですから。
その代わり、自然のリズム、宇宙の理を求めていきたいものです。
そしてその結果として、美しさがついてくるのが理想であります。
二〇一三年一月
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